「無駄の排除」と「効率の追求」は、違うもの

どちらもシステム開発における重要な目標の一つであり、両者のゴールは結果的に、同じシステム(画面、操作性)になることもあります。

しかし、私はこの二つはそもそもの出発点が異なると認識しています。さらにいえば、前者は積極的に推進すべきですが、後者は真に必要なことなのかどうか、常に現場サイドとのヒアリングを行って決定すべき事項です。この根底には、「効率の追求」は場合によっては有害になることがあるということです。

もう 20 年も前、まだ学生だったころ、元号が平成に変わりました。そのときのニュース番組で印象に残ったものがあります。レポーターによる「平成に変わることで、現場にいろいろな作業が発生しています。」という説明のもと、映像には端末を操作している自治体職員が登場しました。そこで職員の方はデータを一件ずつ表示させ、元号の部分を手入力で昭和から平成に修正しているではありませんか! その後のインタビューで、「この作業が終わるまで、あと○○日はかかる予定です」というコメントが紹介されました。

もう大ショックでした。これは人間がすべき作業ではないことは明らかですし、システム化(データのデジタル化)のメリットをまったく享受していないということも問題です。私にとってこれは大いなる「無駄」ですし、そういう非人間的な作業は機械化すべきだという信念があります。

日本のインフラコストが高い原因の一つに、こういう無駄の蓄積があるのではないか?と疑い始めたきっかけでもあります。これらの無駄を排除することで、コストはまだ下がるのではないか? あれから 20 年が経過しましたが、ホワイトカラーの生産性向上というテーマが今もって語られていることをみるにつけ、IT はまだまだ使われていないのではないかと思ってしまいます。

一方で、いきすぎる効率化は人間が本来もっている能力を失わせ、結果として組織の力を削ぐことになるという懸念をもっています。最近読んだ「フリーズする脳」で、その思いを一層、強くしました。この本からは多くの示唆を得ましたので、あとで書きます。