仕事がない時代に、仕事とは何かを考える

私が学生の頃(バブル末期)は、卒業したら仕事があるのは当たり前という状況でした。今はもう違います。子供達には「大人になったからといって仕事があるとは限らない」と伝えないといけません。

こういう状況になって、改めて仕事とは何かを考えてしまいます。すぐに二元論に走るのは好きではないのですが、ここでは敢えて仕事を「与えられる仕事」と「自分でみつける仕事」に分けてみます。

ハローワークにいって仕事を探すということは、「仕事とは与えられるもの」という前提があります。個人レベルではなくもっと大きな括りでとらえると「(需要があるから)労働者を派遣するビジネスを手がける」「自治体がメーカーの工場を誘致する」という行為も本質は同じであると気付きます。仕事に対する個人のアプローチが、受け身的です。

一方で「自分でみつける仕事」はアイデア勝負です。これは起業とは限りません。組織の中にいてもできることもあります。しかしこの場合はリスクを負うことが伴います。みつけた仕事が金銭的にペイするものか?とか、失敗したら自分の地位はどうなる? などがリスクとして想定されます。作業時間を収入(給与)で割った場合、赤字かも知れません。

しかし、です。受け身の仕事はリスクは少ないようにみえて、実は大きなリスクが存在したことがわかってきました。20代、30代、40代という人生の貴重な時間を組織のために労働力として提供するのですが、需要(市場)がなくなった場合には仕事を失うことを学びました。そうなっても、もはや時間を取り戻すことはできません。何かをやり直そうとするときのエネルギーが自分の中に足りなければ、残りの人生が辛くなってしまいます。

自分の中にあるエネルギーとは何かと問われると、それは「夢」のことだと思います。人生において決して取り戻すことができない時間という資源を、お金に換算するのではなく、何らかの夢の実現のために費やすこと。これが「自分でみつける仕事」の本質です。社会的な安定性(大きな組織の中で守られるという観念 - それは錯覚に近くなってきた)が乏しいように見えますが、こういう時代においてはむしろ、逆境に強いのではないかと思うのです。自分の中のエネルギーも持続するので、生きる力という視点では強みになります。

この夢とは「お金を得ること」では、ありません。夢の基本は「好きなことで飯をくう」「好きなことをやりながら他人に感謝・尊敬される」あたりが土台だと思います。夢の実現のために仕事をとらえることができれば、「石の上にも3年」「若いうちの苦労は買ってでもせよ」「守破離」といった思想を受け入れることができるのではないでしょうか。お金よりもむしろ、夢の実現のための経験アップの方に意味を見出すようになります。

人から尊敬されるようなレベルに達するには、相当の時間と、常人では耐えられないほどの失敗経験がおそらく必要なのだろうと思っています。そのような経験がきっとその人間を強くし、魅力ある人格形成につなげていったはずです。苦労した人から発せられる一言は説得力があり、心を打ちます。そういう人の話を聞いて感動し、自分もかくありたい、と思う気持ちは大切です。そして、それは一朝一夕ではできない、と知ることも大切です。そういう人の仕事感とは、決して一時的な給与所得の増減に一喜一憂してこなかったのではないかと感じています。

下積みは損なのではなくて、経験という貯金です。20代、30代に喜んで下積みをした人は、豊かな人生を歩むはず。(それは決して金銭的な豊かさとは同義ではないですが。)私はそういう人生を送りたいと願っており、下積みが好きだという人に、未来を感じます。

ところで沖縄が置かれている振興策というアメとムチは、「仕事とは与えられるもの」という発想が前提にあるのではないかという懸念があります。その呪縛から解き放たれたとき、まったく違う振興策のアイデアが湧きだすことでしょう。もちろん、それは現状維持を許さない変化を伴うので、多くの人は受け入れ難いと思うことは予想できます。が、仕事は与えられるものという意識をもつ間は、下請け構造から抜け出せないという現実は、もう知っているはず。変化はリスクではなく、受け入れる価値のある人生へのチャレンジです。