札幌の時計台を見学して沖縄を思う

出張で人生初の札幌にきています。時間をつくって夕方、市内見学で札幌の時計台を見学してきました。

ボランティアのガイドの方に説明いただけたので、パンフレットで見落としそうなことも詳細に教えていただきました。(おそらくどこかの組織を退職された方でしょう、豊富な知識をお持ちでした。)

  • 明治政府発足後すぐに、ないないづくしの北海道開拓の切り札として米国から先生を招聘し、指導を仰ぐという方針が決まった。当時はうかうかしているとロシアに攻め込まれるという危機感があった。
  • 最初は時計台ではなく、演武場だった。(その看板が残っており、揮毫は岩倉具視でした。)
  • 建物は米国の西部開拓時代を彷彿とさせるつくり。当時の建屋が今も残っている。
  • 時計台そのものは米国製。ワイヤ交換以外の部品は今も使っている。動力は「重し」のみ。
  • 今も鐘がなる。(17:00 に 5 回鳴ったのを聞きました。)
  • クラーク博士が有名だが、実際に北海道にいたのは8ヶ月ほど。指導方法があまりにも強力だったのか、北海道だけではなく全国で知られるようになった。
  • 農学校といいながら工学、科学、水産学など学習内容は多岐に渡った。全国から優秀な学生を集めたが、卒業できたのはそれでも半分ほど。
  • 新渡戸稲造内村鑑三などを輩出しているが、いずれも道民ではない。例えば新渡戸稲造は岩手出身だが北海道でも、地元の岩手でも有名人である。

当時はまさか、そのあと米国と開戦するなど思いもよらなかったことでしょう。世界の中の日本をどうするかを真剣に考えて進めていたのだろうと思います。

実はこれらの話を伺いながら、私は沖縄のことを考えていました。正確には、沖縄と比較していました。

北海道が優れていると感じたのは次の三点です。

  • 明治政府発足後、北海道は米国から先生を招聘するというアイデアを出した。これは前向きである。
  • 農学校を成功させるため、学生を全国公募した。さらにここの卒業生は北海道民の誇りとなっている。
  • 100年以上前のイベントを観光資源として今も引き継いでいる。

このアイデアをしっかり沖縄でも使いましょう。そしてすでにその芽はできています。沖縄科学技術大学院大学です。

恥ずかしながら私も実際に建物の中に入ったのは、つい先月のことです。とても立派な建物で、見学者はみな、感嘆の声を上げていました。これだけでも十分に観光資源になりますが、本当に大切なことは、この大学の先生や卒業生を沖縄県民として、さらにいえば沖縄県民の誇りとして私たちが受け入れることができるかどうかです。

翻って札幌の農学校では、大学の成果が直接、北海道開拓の実用的技術として展開されてきました。これは道民に受け入れられるために必要なことだったと思います。沖縄科学技術大学院大学も、研究成果が沖縄在住の民間企業のビジネスにつながることができるかが鍵になると思います。その橋渡しをするコーディネータの存在が問われます。

世界の中の沖縄として優位性を確立するには、人材の高度化が基本になります。沖縄科学技術大学院大学を核として、そこに県内外の人材をからませるネットワーク構築を行うにはどうしたらよいか。それはずばり、同大学の学生にはなれずとも、その周辺で研究の手伝いに関われるチャンスがあるかどうかです。当社も沖縄の企業として、この点について何か協力できることがないか、考えてみます。