さようなら、トロピカルテクノセンター

私が会社を興す前に勤めていた、沖縄県の第三セクターであるトロピカルテクノセンターがこの3月末をもっていったんすべての入居企業を外に出し、建物をリニューアルするということになりました。

ということで同社の現有スタッフならびに入居企業の多くは、道向かいにあるコンピュータ沖縄さんの一室に仮住まいをさせていただくこととなりました。快く場所を貸していただいた名護社長に感謝しています。住所に変更がありますが、電話番号などは変わりません。1区画移動、という感覚なので沖縄のスタッフは通勤経路も同じ。引っ越しというよりは一時移動という感覚です。

しかしリニューアル後の新・トロピカルテクノセンターは運営方法が変わるという話もあり、私たちが戻れるかどうか、現時点では不透明です。これをきっかけに別のオフィスを探すという発想もあったのですが、今、会社の第一優先事項は「Wagby R7」の開発です。無事にWagby R7を完成させてから、改めて会社の場所を探したいと思います。

振り返ると、私がトロピカルテクノセンターの職員になったのは平成7年10月でした。ほぼ17年半、うるま市に勤務したことになります。そのうち、私が同社の職員であった期間は平成13年3月までの5年半でした。

この間、沖縄県庁の給与システムをオープンシステムで再構築するプロジェクトの技術基盤を受け持ったこと、国土交通省が沖縄で実施したGIS活用事業の中核として県内と県外企業の橋渡し役となったこと、総務省が沖縄に用意したGIS研究施設で大学と共同研究を行い、その成果を市町村へ展開したことなど、充実した活動をさせていただきました。当時の役員や上司の方針もあって社内は自由闊達な雰囲気であり、また国や大学(特に東京大学)とのパイプを活用して最新の技術を沖縄に持ち込む役割を担えたことも幸いでした。

しかしものごとには表と裏があります。当時、私たちが直面した問題は、第三セクターという経営がいかに困難か、ということでした。調査事業であっても、それがビジネスモデルの領域に入った途端に "民業圧迫ではないか" という懸念が起こりました。さりとて別方面からは "いつまでも調査事業だけをやっているわけにもいかず、自立の道を探らないと。" というプレッシャーもありました。その板挟みの中で経営幹部の皆様はご苦労されていたわけです。私はその中ではいわば事業拡張の「主戦派」であり、県内ではなく県外市場の開拓なら民業圧迫ではないという理屈で各所を説得しようとしていました。その流れが、会社設立へつながります。経営陣はトロピカルテクノセンターをインキュベーターとして機能させ、私たち(を含むいくつかのグループを)それぞれ事業会社として独立させることが、結果として有効であると判断しました。その認識があったからこそ、創業後すぐに仕事もいただけ、最初の数年間という難しい時期を黒字でスタートしたことで無借金で製品開発に着手できたのです。

創業時のメンバーは、トロピカルテクノセンターに勤務していた私の部下達でした。そのメンバーが今も当社の中核としてがんばっていることを思えば、これが私にとってもっともよい形の、そして自然な起業だったともいえます。ジャスミンソフトは確かに、トロピカルテクノセンターから産まれた、といっても過言ではありません。

同社はその後もさまざまな事業を継続してきましたが、今回、体制の見直しと建物のリニューアルということになりました。17年半もの間、この建物でいっしょにがんばってきた人達のことを思うと、感慨深いものがあります。当時の経営陣をはじめ、同社に関わってきた皆様には本当にごくろうさまでしたとお伝えしたいです。もう入居企業という形で関わることはないのかも知れませんが、同社のインキュベーションプログラムの成果であるジャスミンソフトは、着実に県外市場への展開を図り、成果を出すことでその恩に報いたいと思います。