「一切を棄つるの覚悟」

終戦記念日が近づくと、戦争についての報道が多くなります。私の興味はつねづね「なぜ、日本は戦争をしなければならなかったのか(避けることはできなかったのか)」と、「戦後、日本は変えなければいけないことを変えることができたのか」の二点です。最近読んだ「石橋湛山評論集」(岩波文庫)は、当時の状況を生々しく知ることができる貴重な資料でした。私の疑問について多くのヒントを得ることができました。
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小日本主義は当時、どのように扱われたのか

石橋湛山といえば当時、小日本主義を唱えた論客として有名です。今回、氏の主張を直接読んで、改めて "なるほど" と感心しました。大正10年の社説「一切を棄つるの覚悟」から一部を抜粋します。

我が国の全ての禍根は、しばしば述ぶるが如く、小欲に囚われていることだ、志の小さいことだ。吾輩は今の世界において独り日本に、欲なかれと註文せぬ。(中略)否、古来の皮相なる観察者によって、無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ、大欲を満すがために、小欲を棄てよと教えたのだ。(中略)しかるに我が国民には、その大欲がない。朝鮮や、台湾、支那、満州、またはシベリヤ、樺太等の、少しばかりの土地や、財産に目をくれて、その保護やら取り込みに汲々としておる。従って積極的に、世界大に、策動するの余裕がない。

しかり、何もかも棄てて掛かるのだ。これが一番の、而して唯一の道である。(中略)もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、会議そのものは、必ず我に有利に導き得るに相違ない。例えば満州を棄てる、山東を棄てる、その他支那が我が国から受けつつあるありと考うる一切の圧迫を棄てる、その結果はどうなるか、(中略)英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的位地を保つを得ぬに至るからである。

文中では続いて、経済的にみても植民地を有するメリットは(それにかかるコストに)見合わないこと、自由貿易に徹した方がはるかにメリットがあること、すでにこの時代、植民地支配そのものが世界的にみて遅れた観念であることをはっきりと説明しています。2014年から振り返ってみれば、氏の主張は同時代において先進的であり、もしそのように振る舞っていれば日本は戦争せずに世界のリーダーとしての地歩を固められたのではないかと思ってしまいます。

しかし現実には氏の主張は通りませんでした。氏の言葉を借りれば、"小欲" に囚われたのです。将来の果実より、目先の利益を重視するという選択をした。それがどんな結末となり、また戦後70年経った今も未解決の問題が多く残されているかをみれば、現代を生きる私たちもまた、同じ轍を踏んではならないと思わずにいられません。

敗戦からの経済復興のあと、日本がトライするべき課題は何か

私自身は大本営発表の嘘に踊らされた国民は戦争の被害者で、責められるべきは一部の指導者であるという考え方には同意していません。当時の状況を知れば知るほど、世界情勢を踏まえた上で、戦争を継続するしかない、いう意思が少なからず日本全体に共有されていたのだろうと思います。そして敗戦を機に、生き残った方々は「何かを変えないといけない」という気持ちを強くもって戦後の復旧に取りかかっており、その努力の上に今の私たちがいるということも自覚しています。それでもあえて、敗戦を経験した日本が本来、変わるべきところが変わっていないのではないか、という視点で考えてみます。

自分の中でじっくり考えて出した結論は、"小欲" を棄て、"大欲" に挑む人材をどれだけ増やせたのか、ということでした。戦後すぐは、多くの偉人と呼ばれる方々が輩出されました。しかし今、そのような思想・哲学を自覚的に持って活躍する人材は少なくなっていないか、という問題提起になります。個人的な経験では、多くの人は「情熱をもって何かを変えたい」という人を応援します。そしてSNSが発達しつつある現代社会では、その気になればいくらでも知人を介して、人の輪を広げていくことができます。もちろん、そういう人は実際にさまざまな現場で活躍されていますが、それは本来なら今の10倍、100倍の規模に達していることが期待されたのではないか、ということです。

私はSIと呼ばれるシステム開発分野に従事しているのですが、大規模開発になるほど多くの矛盾を抱え、人が疲弊する現場になりがちです。根本的な解決をしない限り、同じことが繰り返されることがわかっています。この問題にメスを入れようという "大欲" をもった人達とお話するといつも盛り上がるのですが、それでも全体の従事者からみれば圧倒的に少数というのが現実です。

今の日本はほとんどの業界で制度疲労を起こしています。各業界がまったく異なる発想で - 例えば戦中における石橋湛山氏のような次元の違う発想で - 新しいルールをつくるという難題に着手しないといけない状況にあります。それでも関係者が目先の "小欲" を追いかけ、とりかえしのつかないところまで行ってしまえば結果的に「第二の敗戦」を迎えることになりかねません。そのときになって、戦争で命を賭けた方々から「先の大戦から何を学んだのか」と突っ込まれるのは恥ずかしいわけです。

"棄てることで次の発展の目を得る" ということができた組織が求められているのはいつの時代も変わらないでしょう。それを率先して進めるのが日本が本来、やるべきことだという気持ちをもつことが、亡くなった方への供養になる、という気持ちで終戦記念日に臨もうと思います。