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これからの正義と、経営哲学

マイケル・サンデル著「これからの正義の話をしよう」について、です。
http://www.amazon.co.jp/dp/4152091312

まずは本の中で取り上げられている問いから。

  • 1人を殺せば5人が助かる状況があったとしたら、あなたはその1人を殺すべきか?
  • 金持ちに高い税金を課し、貧しい人々に再配分するのは公正なことだろうか?
  • 前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか。

つまるところこれらは、「正義」をめぐる哲学の問題なのだ。社会に生きるうえで私たちが直面する、正解のない - にもかかわらず決断をせまられる - 問題である。哲学は、机上の空論では断じてない。金融危機、経済格差、テロ、戦後補償といった、現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題に向き合うことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。

読後の感想ですが、この本が米国から出てきたということにまず驚きました。最近のニュースでも、オバマ大統領が提案する社会保障について、"課税強化で貧困者を助けるのは米国の自由を妨げる" という自由至上主義的なコメントが多く報道されており、これが米国的発想なのだろうと理解していました。1990年代後半の日本でも(私が社会人になってからの時期と同じくして)米国的自由主義、権利主義、個人中心主義が注目されてきたことも影響しています。

しかしこの本の中で著者は、米国の中心であると思われる自由主義的な考えに警鐘を出しています。日本でも、米国の著名な経済学者であるミルトン・フリードマン氏の唱える自由主義経済の理論を学んだ人は多いと思いますが、その考えではいけない、と "哲学的な" 視点から反論されているのは、私にとって斬新で、勇気を与えるものでした。

ちなみにフリードマン的発想とは何か、について本の中から抜粋します。

  • ある人が自らの意思でその日暮らしを選び、目先の楽しみにお金を使い、わかっていて不毛の老年期を選ぶのは自由であり、まわりがとやかくいう問題ではない。
  • 給料がいかに低かったとしても、働く側がそれを受け取ってよいというのなら、政府がそれに口を出すべきではない。
  • もし割安で盲腸手術を受けたいとすれば、医師免許の有無にかかわらず、誰にその手術を依頼するのも自由であるべきだ。

もう一つ、米国の精神的支柱として知られているのは、資産家の扱いです。私たちの業界でビル・ゲイツは有名ですが、「彼は努力したから資産家になれた。これがアメリカンドリームである。」は多くの人が納得していると思います。しかし著者は、「それは彼一人だけが得られる報酬だろうか?」という考察を行っています。この考察の果ては、有名大学の学生(つまり彼の教え子達)を怒らせるのですが、著者はそれでもあえて「高い学歴、すばらしいチャンスがあなたの前にあるのは、あなただけの力ではないことを知るべきだ」と諭します。

自由主義に変わる精神的支柱は何か。著者は後半で、カントの哲学を紹介しています。正直にいって、私は 20 代の頃、カントの主張が理解できませんでした。その後しばらく忘れていましたが(ソフィーの世界でいったん思い出しましたが、カントはそこまで丁重に扱われているわけではなかった)この年齢になってはじめて、そのいわんとしていることが、すっと心に染み入りました。私にとっては、ある程度の時間(経験)が必要だったのだと思いますが、40代の今、カントについて深く考えるきっかけを与えられたのは幸いでした。

"自由"とは何か。

おいしい食べ物、立派な建物、きれいな服。何にも妨げられずに、したいことをする。実はこれは人間にとって自由な状態ではなく、欲望の奴隷となっている状態だという立ち位置から出発します。欲望を満たそうとする行動はすべて、自分が決めているのではなく、外部から与えられた欲望を目的(ゴール)として行動しています。自分が選択しているようにみえるものは、欲望というものによって選択肢が決められているわけです。これは真の意味で、自由ではありません。

なぜ勉強するのか。
それは、いい成績をとりたいから。
それは、いい会社に就職したいから。
それは、いい会社で出世したいから。
それは、お金持ちになりたいから。
それは、大好物を毎日食べたいから。

これは感性的な生き方で、自由ではない状態です。

では自由とは何か。自分で生き方のルールを決め、それを守っていることが、真の自由な状態です。ただし、そのルールは "道徳的" であることが求められます。例えば嘘をつかない。例えば、他者の人格を尊重する。

誤ったルールは「ここでこういう行動をとったら、こういう結果になるだろう。」と、結果からルールを考えることだといいます。
正しいルールは「結果がどうなろうとも、その行動をする意図(動機)が純粋であること。」だといいます。

これを自由の定義とされたとき、多くの人は混乱するでしょう。カントの哲学はとても面白い(と、今は思う)のですが、これ以上は割愛します。

ここから私自身の話になります。読後、まっさきに考えたことは、私にとっての哲学、より具体的には「経営哲学」を示す必要がある、ということです。売上規模や社員数といった数字上の指標は、あくまでも成長のための目標や実績値です。もちろん、会社は倒産させてはいけないという大前提がありますが、そのためには何をやってもいいか?と問われれば、そこにある種のルールが必要なのはいうまでもありません。そのルールはいきあたりばったりなものではなく、経営者の哲学を土台としなければなりません。土台がもろければルールは時代(またはそのときの経営者)によって変わってしまうため、社員やお客さんは混乱するでしょう。

カントの考えに沿うならば、「会社の格律を決め、それに従って行動する」ような組織をつくるのが経営者の仕事です。その格律は「人間性を究極目的にする」ことが前提です。人格は物ではない。つまり、社員は単なる労働力(手段)として利用するべきではないし、お客さんはお金の出し手(手段)としてみなすべきではない、という、ごく当たり前のことを真摯に意識することです。

やっと松下幸之助氏が言わんとしていることが私の中でつながりました。氏は「おたくの会社は何をつくっているのか」と問われたとき「はい、人間をつくっています。その傍ら、電気製品をつくっています」と答えたという有名な話があります。すべての経営者は、人間をつくるのが最大の役目なのです。正しい経営、正義の経営とは、「こうこうしたら、どうなる」という結果を予想して行動様式を変えるのではなく、「人間を大切にするという軸をぶらさずに、やるべきことをやる」という主義を貫くことです。そして、その主義を貫くことと、経営基盤の安定は矛盾しない(会社は継続できる)という自信を経営者がもつことです。

もちろん、主義主張を貫いたばかりに会社が傾いたらどうする!という突っ込みはあるでしょう。そんなに甘くないことは承知しています。好況のときは目立たないでしょうが、不況のときに断腸の思いで決断する場面が、経営者には出てきます。そのときに自身の決めた格律に従って行動できるかどうかで、鍛えられるのだと思います。その結果は短期的にはいろいろ言われるかも知れませんが、長期的にみた場合、会社の歴史となり、社風になります。実際には困ったときの決断というのは、必ず誰かに突っ込まれます。皆が統一見解を出せない状況を、困るというわけですから。であれば、その判断基準を正義におくことは道理といえます。


個人個人の価値観がこれだけ多様化した現在において、待遇や、残業の少なさなどで会社をアピールするのは簡単ではありません。
むしろこの時代だからこそ、哲学を示すのが必要なのだと、改めて感じています。

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